Roentogen Xebec 5cm f1.5
 

Lens Data

Lens Unit

Lens Photo

製造メーカー:上代光学研究所、五城光機、国策精工
設計者:上代格(推定)
製造番号:72178
製造年:1942年頃
レンズ構成:4群6枚 or 5群7枚
      変形ダブルガウス型
重量:264g
最小絞り値:約f22
絞り枚数:13枚
最短距離:1m
マウント:ライカマウントに改装

Lens Impression

レンズ名のK.O.L.とはKajiro Optical Laboratory上代光学研究所の略である。千葉県大網白里の大網元に生まれた上代斉(かじろせい)(「さい」も可)とその弟上代格(かじろかく)が作り上げた日本初のレンズ専業メーカーの変遷はこうだ。
千葉県大網白里の大網元の長男で家督を相続した上代 斉は、昭和14年(1939年)7月、来るべきカメラ時代を予見し、「上代光学研究所(K. O. L.=Kajiro Optical Laboratory )」を設立。拠点を東京都淀橋区下落合2丁目−875に置いた。
 レンズ設計はドイツ留学で肖像写真家Nicola Perscheidに師事して写真術を学んだのちに1928年にベルリン工科大学で光学修士号を取得していた斉の弟の上代 格が担当した。
 昭和16年(1941年)、重要産業団体令の施行に伴いさまざまな産業の統制が強まり、精密機械統制会など多くの統制団体が作られていった中、カメラおよびその付属品の製造業者も同年7月に、東京および関西の団体の連絡機関として全国写真機械製造工業連合会が結成された。こうした環境下、上代光学研究所で研究開発された写真用レンズを生産し供給する目的で、新たに光学メーカー「五城光機製作所」を創設。場所は上代光学研究所近くの淀橋区下落合1丁目−67とし、その後下落合2−969に移転した。
 昭和16年後半、五城光機の新設に伴って、旧工場と商標権を「国策精工株式会社」に譲渡。この会社の詳細は不明であるが、その所在地は上代光学研究所と同じ、東京都淀橋区下落合2丁目−875であった。
 昭和19年(1944年)7月、戦争激化に伴い、五城光学本社は淀橋区から市川市に、工場は上代家の出身地である大網白里(北今泉)に移転した。
 昭和22年(1947年)、兄弟は運営方針の意見の違いからで袂を分かち、兄・斎は五城光機を改称して「SUN光機株式会社」を設立、弟・格は「鰍yeika」を設立した。
 上記のように昭和14年から22年までの8年間で合計5つの会社が登場しており、この入り組んだ関係がK.O.Lレンズを分かりにくいものとしている大きな要因ともいえるだろう。
 果たして、上代光学研究所はシンクタンクに特化し、生産は五城光機に完全に委ねていたのか?上代光学研究所と同じ住所にあった国策精工は大阪にあった東亜国策精工株式会社の東京分社で上代光学研究所を吸収する形でK.O.Lブランドを購入したのか?それとも国策精工の運営自体に上代兄弟が絡んでいて売却といっても戦時下の一種のカモフラージュのようなものであったのか?
 商標売却後も五城光機と国策精工は、K.O.Lレンズの広告に両社名を並記する形を取り続けた。商標は売却され五城光学の手を離れたはずなのになぜなのか?
 さらには、昭和22年(1947年)の兄弟の別離の具体的な理由は何なのか? K.O.Lを巡る謎は多く、興味は尽きない。

K.O.Lブランドのレンズが新興カメラメーカーを中心に数多く使用されていた。戦争が激化していく中で、当時写真用レンズを生産することができた日本光学をはじめとする大手企業は軍需品の生産で手一杯となっており、会社としての歴史や実績はないがレンズ開発に意欲的な同社K.O.Lレンズは非常に使い勝手が良かったに違いないだろう。
 こうした状況について北野邦雄は1942年3月に著書「マミヤシックスの書」光畫荘の中で、
「上代光学というレンズ会社は、比較的新しいので一般に馴染みは薄いが、主人が熱心なためか、製品は日進月歩といえる。私自身が使った経験によれば、初期のK.O.L.は中央部の描写力が特に優れていたようであるが、最近のものは全体に均等な描写をするようになったし、最初見られた包括力不足に原因する周辺部の光量不足も近頃では殆ど取れてしまったように思われる。トリオターには残念ながら及ばぬとしても、トリオプラーン、トリナー級の鮮鋭描写を持つレンズである。国産の三枚玉には球面収差の残存しているものもあり、これを引伸などに使うと照明ムラとなって現れ、始末の悪い結果となるが、K.O.L.はこの収差もない。」
と記述し、この新興レンズメーカーを評価している。

この大口径レンズは、本著の中にあるルミターLumitar 5cmf1.5と同じ目的、すなわち「日本光研株式会社製X線蛍光像縮写機」に装着し使用されたレンズであろう。
 同社の詳細は不明であるが、昭和17年(1942年)3月の日本レントゲン協会会誌「蛍光」に同社初の「日本光研STII型レントゲン間接撮影用カメラに就いて」という記事が掲載されていることから、その前後に設立された会社と思われる。

 レンズ構成はマウント改造時の所見では、ライツ・クセノンと近似した5群7枚の変形ダブルガウス型のようだとあるが、反射面から推定されるのは、4群6枚のダブルガウス型であり、正確にはよくわからない。レントゲンレンズであるため、通常は絞りが内蔵されていないが、この個体には13枚の絞りが内蔵されている。
 実際に撮影してみたところ、やはりフレアは多めであった。戦時中の製造であること、経年変化なども考慮すると違和感はない。一方で、ピント精度は高く、後ボケに見られる中程度の輪郭(2線ボケ)による硬めの画面と、さほど強くない程度のぐるぐるボケは、まさに典型的大口径オールドレンズの特徴を示してくれる。



 Photos with Roentogen Xebec 5cm f1.5
 
2022
Yanaka
(谷中)

秋の谷中をひとまわり。
今回は絞りを少し絞って撮影した写真が多いです。もちろん開放の画像もありますが、ハイライトの滲みをご覧いただくとすぐにわかると思います。

昭和の下町の名残は、時と共に徐々に無くなっていますが、谷中は地元の方々の保存に向けた活動もあって、まだまだ楽しめる落ち着いた街です。その証拠に、谷中で外国人に道を尋ねられると、その半数近くが、フランスからの観光客でした。

2022
Monzen-nakacho
(門前仲町)

1月の下旬に門前仲町を散策しましたが、場所柄か、まだ処々に正月を感じさせるような明るい雰囲気を感じることが出来ました。

辰巳新道は、昭和を感じさせるような昔ながらの建物に居酒屋などが多く、夜は各店の灯りが輝いて美しい夜景になりそうに思えましたが、通り過ぎた午後早い時間帯はひっそりとしていて、そこに漂う名残の空気がとても心地よく感じられました。

撮影は絞り開放近くが多いですが、さすがにハイライトはかなり滲んで、周辺部のボケもとても面白い、まさに楽しくなるようなオールドレンズでした。

 
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